「どうして山なのか」

山と出会ったのは高3の5月だった。今から3年前の話だ。

初めて登ったのはGWの伊吹山。その後、比良に通うようになった。

その頃は、海外留学の夢を親に諦めさせられ、卒業研究のテーマすら決まらず、部長をやっていたスキー部でも散々トラブルを抱え、挙句の果てにせっかく合格した海外研修を自暴自棄のあまり蹴ってしまったこともあった。とにかく自分自身に失望していた。


そんな僕にとって山は「逃げ場所」だった。そして、「癒し」と「達成感」を与えてくれる場所だった。

そして、のめりこんだ。梅雨や用事で行けないことも多々あったが、初夏に近場を登り、夏休みの初アルプスでは白馬岳に行った。秋は比良に集中して週末登山を重ねた。


現役最後のスキーシーズンを挟んで、スキー学校でもらった生まれて初めての給料をはたいて、春にはテントも手に入れた。大学入学後は塾講師バイトのお金をためて、夏休み前には他の装備も一気に揃えた。心底うれしかった。

そして、その夏は南ア白峰三山と北ア南部の縦走にでかけた。槍ヶ岳の山頂に着いて蝶ヶ岳から歩いてきた稜線を眺めたときの達成感は、今でも忘れることはない。「山旅」という新しい旅の形を見つけ、以来、1週間級の長い縦走に憧れるようになる。

ちょうどこの頃、サークル活動としてESS(英語サークル)に入っていたが、人間関係や行事が面倒で嫌気が差していたのと、登山と写真にお金・気持ちともに集中したくて、10月にはスッパリ辞めた。その辞め方がまたとんでもなくアレだったわけだが、無駄なお金を使ってしまった後悔と、人と関わる機会が激減したことで、すっかりふさぎこみ、病み続けていったが、「自分には山がある」と思うと気持ちが落ち着いた。


その年のスキーシーズンは絶不調に終わり、シーズンの最後に参加した母校の合宿は、今も部内で悲劇の合宿として語り継がれるほどの惨憺たるものとなり、自分も激しい精神的弾圧を加えらた。スキーのことを思い出すだけで腹立たしく、少なくとも次のシーズンまでスキーから距離を置くことを決めた。

そうして、3回目の登山シーズンが始まった。

その年は怒涛だった。近場は逆に億劫になって日帰り山行は激減したが、GWの涸沢、夏の涸沢、南ア南部縦走、北ア西部縦走をやった。中でも南ア南部は格別だった。次々と現れる3000m級の山々、誰もいない登山道、流れる雲、空、風。

ひとりでも、辛くても、真正面から向き合えるものがそこにあった。同じ志を持った登山者たちとの一期一会もまた素晴らしかった。


3年間山をやってきて、数々の尋常ではない景観を目の当たりにし、これまでになかったものを次々につきつけられ、ものの見方や考え方も、少しずつだが、大きく変わっていった。

それは、何年か経って気づくものだった。最初はあちこちで耳にする「登山で人生観が変わった」という話を胡散臭いと思って聞いていたが、今なら納得がいく。



3年間登山をやってきて、僕は単独専門を貫いてきた。

というか、いつでも単独行動が好き、というのが正しいだろう。学校でも友達と群れるタイプではないし、登山を始める前は毎年鉄道旅行に一人で行っていたし、毎週一人でスキーに通っていたこともあった。

その一方で、人と話すのは大好きで、見知らぬ人でもその場でマッチすれば何時間も話すことだってある。だけど、結局のところ人間関係が苦手で、最後は単独行動に落ち着いてしまう。もしかすると軽い精神障害があるのかもしれない、と思うこともある。

それは、ただ単に「友達がいない」「ぼっち」ということかもしれないし、そう言われるだけの理由は十分にあると思う。だけど、自分の中では進んで「ひとり」を選んできたつもりだ。それは、他人との無用なトラブルを避ける一番良い方法だったからだ。

一方、一人で行動することの最大の問題点は、はっきり言って世間体という一言に集約できる。

好き好んで一人で行動していたとしても、「あいつは友達がいない」「人間として劣っている」と白い目で見られ蔑まれる。「周囲は自分が思うほど自分を気にかけてはいない」とは言うが、やっぱり僕は耐えられない。一人でいること自体が孤独なのではなく、そう思われているのでないかと気にしてしまうことが自分を孤独にさせるのだ。

僕は世間体に合わせるだけの妥協もできなければ、世間体を気にせずに生きる勇気も無い。僕は勇気も覚悟もなく、ただ嫌なことから逃げているだけの人間だと思う。

だが、山は「一人で行動すること」がおかしくない数少ない場所だ。最盛期の北アなどを除けば、むしろパーティー数で言えば単独行の方が多いぐらいだろう。

一人で行動することを正当化するために山に入る、というのはいくらなんでも言い過ぎだろうが、逆に登山が他の多くの遊びのように複数人でやるのが当たり前のものだったとすれば、僕は登山にのめりこむことは絶対になかったと思う。


どうして自分にとって山が大事なのか、結局のところは分からない。

だが、山を歩くことを「旅」のひとつとして楽しんでいることは間違いない。生活装備を自分の背中に背負って歩くことは、旅の形として最も基本的な要素であり、そして、そこで見られる景色、感じられる空気、得られる経験は、下界のそれとは全く別格のものである。


自分は山でしか得られないものを求めて山に登る。きっとそうなのだろう。