文学作品をダシにテスト⇒犯罪行為

うちの国語の授業は、毎回のテストごとに課題図書が指定される形になっています。1年次は小説、2年次は新書、3年次は現代文学です。今回は課題は中島敦の著書なんですが、実際に読んでみるとこれが案外面白い。
特に「名人伝」は短編でうまくまとまっていてかなりおもしろいですし、「山月記」や「李陵」もなかなかです。これから「弟子」を読むところですが、こっちは人物関係がややこしくて読みにくいとか・・・

そんなこんなで、文学作品を読むこと自体は好きです。が、現代文の「テスト」は嫌いです。そもそも自分はテストそのものが学生の自由な思考を奪う最悪の犯罪行為だと考えていますが、偉大な人々の書いた文学作品をそのテストのダシに使おうとは、まさしく犯罪以外の何物でもないでしょう。なぜなら、テストは作品に関する「内容」を問うのであって、それは必然的に、作品そのものを純粋に楽しむことよりも、機械的に内容を覚えることを優先させることになるからです。これは同時に、文学作品とその著者に対する侮辱も意味します。それなら感想文を書く課題を与えるなりしたほうがずっと生産的といえます。

とはいえ、そんなことにいちいち振り回されているのは癪なので、最近は気持ちを変えました。「課題図書は『良い作品の紹介』として受け止め、テストは無視する」と。だから今回の課題図書は結構楽しめてるわけです。ただし、そういう自由な気持ちを得ることは、必然的に点数と引き換えになってしまいます。(ちょっと話は脱線しますが、この双方を同時に実現できる人こそが、きっと本当の意味で頭のいい人なのだと思います。ガリ勉優等生と知的な彼らとの違いはそこにあります。もちろん、自分は数学の分野で後者のグループに入ることを望んで努力しています。しかし、それは容易なことではありません)

今日書いたことは、どの科目にでも共通の真理だと思います。特に文学、哲学、数学、物理学などの純粋な学問でこの傾向が強いのではないでしょうか。

では。