「山と時間とお金と幸せと・・・」 前編

膝を壊して山に行けなくなって、結果として「山って自分にとってどのぐらい大事なのだろう」と考える機会を持つことになった。


大学に入る頃から自分の中で「山」が急激に大きくなり、2年前にテントを買った、一番山に対して新鮮な気持ちを持っていたあの頃から、残雪と新緑の季節の山にひたすら行きまくりたいたいという夢があった。


1回生の頃はひたすらお金がなかった。2回生は正課が忙しくて授業を休む勇気は出なかった。

山に行くことを阻んできたものは、結局のところ「時間」と「お金」であった。今だけ特殊で「膝」という要因があるが、原則的にはこの2つは今も変わらない。


早速脱線になってしまうが、1回生の6月〜10月はサークル活動としてESSに所属していた。

大学に入学したての時期に派手な家庭内トラブルがあってサークルどころではなかったため、かなり遅めの入会となってしまった。最初のうちは、新しい出会い、新しい活動、親切な先輩たち、飲み会など全てが新鮮だった。8月上旬の夏合宿は遊びオンリーの合宿だったが、夏の戸隠高原で大勢で遊びまくり、とても楽しい4日間だった。

そして、その直後が自分の本格的な山デビューだった。大きなザックを背負って、8月中旬は北岳、9月中旬は蝶〜槍を経験し、山の素晴らしさにとりつかれた。大きなザック、テント生活、アルプスの風、緑、岩、太陽、空、山特有の時間の流れ、下山後の温泉、降りてきた上高地の雰囲気・・・全てが強烈だった。


もっと山にいたい。


そのためには、時間とお金が必要だった。

だが、正直なところESSにも居続けたかった。しかし、ESSには合宿費を中心にかなりのお金がかかってくる。出席必須の行事も多いし、2回生、3回生と上がるにしたがって責任ある仕事を任されるようになれば、夏休みだって自由にはならなくなってくる。

縦走登山は、1週間単位の連続した時間を必要とする特殊な遊びだ。例えばスキーで数ヶ月にわたってどこかに住み込むとしても、ケータイとインターネットとパソコンがあればある程度の仕事は遠隔でこなせる。仕事はできなくても、連絡してきた相手に「今は仕事は受けられない」と電話などで伝えることはできる。しかし、アルプスの縦走登山ではそんなことはできない。下界に降りてきてみて、自分が山にいる間に何かと面倒な事態に発展していたなんてザラに考えられる。それゆえ、下界のあらゆる雑務から隔離された状態が許される身分でなければ、中長期の登山はできないといっても過言ではない。いつ誰から連絡があるか分からない人間に、登山は不可能だ。仮に用事のある日が決まっていて、夏休みの60日のうちその用事が10日しかなかったとしても、それが6日に1回というペースだったら、その時点でアウトなのだ。

写真の腕もみがきたくて、機材もレンズを中心に欲しいものがたくさんあった。そのためにはやはりお金が必要だった。もちろん登山にだって多少なりともお金はかかる。

登山と写真か、それともESSか、どちらかを妥協しなければならなかった。


秋合宿(こちらはマジメなディスカッション大会の合宿)には参加することにしていたが、そんな理由から徐々に乗り気でなくなっていった。秋合宿の事前準備合宿でも、頭の中はお金の心配ばかりが渦巻いていた。

キャンセルしようかと思いながらズルズルと時間は過ぎ、結局秋合宿の日が来てしまった。その先の顛末は今も書きたくない。別に他人から見て大したことがあったわけではないが、自分の中では、もう耐えられないという状態になってしまった。そしてそのまま辞めた。損害は秋合宿費の5万円。今から思えば、勉強料としては高くはなかったと思えるが、そのときは「キャンセルしておけば・・・」と思うばかりであった。


ぶっちゃけた話、僕は英語力を磨きたくてESSに入ったわけじゃない。ただ大学生らしくワイワイやって遊びたかっただけなんだ。だけど、それ以上に自分にとって山が大事だと思い、優先順位をつけた。それだけのことである。

今から思うと、「大学生らしい華やかな生活」から外れてしまったのは惜しいが、欲しいモノを手に入れて、行きたい山に行けて、トータルでみればESSに居続けるよりも幸せな時間を過ごせたと思う。


さて、これでやっと本筋に戻れる。

ともかく、自分は山と写真を大学生活の中で一番重要なものと位置づけた。

そのために必要となる「時間」と「お金」。これを思い通りにする最も簡単な方法は、学科(約100人)内のトップ3に入り、学費減免の奨学金を獲得することだった。お金があれば、バイトを辞めることができ、完全な自由の身になる。

奨学金はもともと入学時からの目標であり、取れた暁には「半額分を分けてもらう」ことを親とも約束していたが、秋合宿のこともあって、さらに拍車がかかった。これを取れなければ、来夏もバイトに出てお金を稼ぐ必要に迫られることになり、夏休みが虫食いになってしまう。山行日程ギリギリの休みを確保できても、一発台風が来れば文字通り全て吹き飛んでしまう。出発待ちをできるだけの十分な休みが欲しかった。確実に山に行きたい。願わくば、なるべく良い天候を狙って。その一心だった。

成績稼ぎに奔走した。学科の連中とはいまいちソリが合わなかったせいでほとんど関わっていなかったので、一人で孤独な戦いになった。別に猛勉強をしていたわけではないが、誰にも頼れず、本当に取れるのだろうかという不安ばかりが募り、心労から不整脈が頻繁に出た。

また、少しでもお金を節約するため、食堂に行くのをやめ、カップラーメンか家から持ち込んだ白飯とふりかけで済ませるようになった。(今ではこれで十分やっていけるようになってしまい、完全に定着) 節約のためとはいえ、好きなものを食べられないのは苦痛だった。尚更気が滅入った。


1月末の試験を乗り切り、3月末には成績発表がやってきた。緊張のあまり震えた。成績の用紙をもらう自分の順番が回ってくるのがもどかしくて仕方がなかった。

やっとのことで成績表をもらえた。真っ先に開き、左下のGPAの欄を見た。




や、やった・・・・・・




奨学金が確定した瞬間だった。これで自分はお金から解放され、時間からも解放され、晴れて自由の身となった。


そして、夏休みがやってきた。山のためだけにこの夏を使うことを決意していた自分は、当然バイトは一切入れず、仲間からの旅行の誘いも断って、2ヶ月のうちのお盆以外の時期を全て空けた。8月下旬は天候不順と膝痛で出発待ちとなったが、山行の順序を入れ替えるだけで済んだ。そして、怒涛の勢いで1週間級の山行を3つ立て続けにこなした。


そして、3回生になった。2回生では成績稼ぎの要領もつかめ、それほどの不安もなく奨学金を2年連続で獲得できた。


「残雪と新緑の山に行きたい」


今こそ、その夢を実現させるときだった。


毎週4連休の時間割を立て、予算も用意した。第一弾はGWの立山スキー山行で、これは大成功に終わった。その後は、大峰・妙高・飯豊・南岳などを計画し、意気揚々となっていた。

しかし、その次の週から様子がおかしくなった。膝が痛くて、階段を下りるのも苦痛なのである。この膝痛はこれまで何度か出ていて、そのたびにしばらく休めばよくなるという状態を繰り返していたため、今回も同じだと思った。

GW以降はその膝痛に加えて、天候不順やその他の事情もあって山には行けず、6月に入った。しかし、一向に膝は良くならない。これはおかしいと思い、整形外科を受診した。

レントゲンでは異常なしだったが、触診で異常所見。翌週MRIを取り、精密検査を行った。告げられたのは・・・



右脚脛骨上部外側の疲労骨折。全治3ヶ月。



(続く)