僕は山をやめるのか → NO

僕は、山をやめたい。


山よりずっと大切な物があることを、趣味よりも仕事よりも価値のある物があることを、自分は山を始めるずっと前から知っていた。

一緒にいてくれる人。気遣ってくれる人。そんな人がいるという幸せは、自分にとって、いかなる山の頂上よりもたどり着き難いものだった。世の中にあふれる幸せな人達を、嫉妬の目で見続けてきた。

登りで息が上がっても、下りで膝が痛んでも、烈風に叩かれて体力が奪われても、雨であらゆる装備が濡れても、滑落したら死ぬだろう場所に何度出会っても、単独行の辛さ悲しさ苦しさをどれほど感じたとしても、山をやめようなんて思ったことは一度もなかった。

ありのままの自分を受け入れてくれる自然の懐の広さ、孤独を忘れさせてくれるほどの強烈な自然の力、そこで得られる経験の鮮烈さ。それが寂しい自分を支えてくれた。

だからこそ、自分は山に登り続けてきた。


だけど、もうそうは思えない。

まだ昨日の今日で、想いも完全に届ききってはいないし、実質片思い状態から抜けきれてない。だけど、少なくとも他の異性よりは自分と過ごす時間を大切に思ってくれる人がいる。僕は、その人ともっともっと一緒にいたいと思う。カッコ悪くても、不器用でも、粗野でも、その人を心から愛したいし、心から幸せにしてあげたいと思う。

その人は山をやらない。そもそもアウトドアを好む人種でもない。だけど、山から離れて下界にいるときの自分の姿を鏡に映したような、何かを感じることができる。そんなあの人だからこそ、なおさら、山に行く自分を心配してくれる。


山は危なくない。山だろうと、街だろうと、死ぬときは死ぬし、死なないときは死なない。自分の意識レベルさえ上げれば、危険は十分排除できる。そう信じてきた。

だけど、どうだろう。どう考えても山は危ない場所ではないか。順調に行っているうちはいい。だけど、ことさら単独行は、何か一つでもトラブルが起これば、全てが致命的な結果に結びつきかねない膨大なリスクを負っている。回数こそ少ないけれど、自分自身もその恐ろしさを垣間見てきた。

山はきっと危ない。夏山ですら十分危ない。

だけど、そんな自分は、すでに夏山では満足できない。冬山の見せてくれる死に近いモノトーンの世界、一人で真っ白な雪の上にトレースをつけていく感覚、そして落ちたら死ぬという途方も無いリスクが、自分の意識を極限まで高めてくれる。その鮮烈さに心惹かれてやまない。八ヶ岳で、南アルプスで、北アルプスで、冬山にひとり挑戦する自分の姿を思い浮かべる。


正直なところ、自分自身の命なんて、どうなってもいい。

だけど、自分が心から大切に思う人、そして自分を気遣ってくれる人に心配をかけることは、自分の命が危険にさらされることよりも、ずっとずっと罪深い。


かつて、僕はこう書いた。

好き好んで一人で行動していたとしても、「あいつは友達がいない」「人間として劣っている」と白い目で見られ蔑まれる。「周囲は自分が思うほど自分を気にかけてはいない」とは言うが、やっぱり僕は耐えられない。一人でいること自体が孤独なのではなく、そう思われているのでないかと気にしてしまうことが自分を孤独にさせるのだ。


僕は世間体に合わせるだけの妥協もできなければ、世間体を気にせずに生きる勇気も無い。僕は勇気も覚悟もなく、ただ嫌なことから逃げているだけの人間だと思う。


だが、山は「一人で行動すること」がおかしくない数少ない場所だ。最盛期の北アなどを除けば、むしろパーティー数で言えば単独行の方が多いぐらいだろう。


一人で行動することを正当化するために山に入る、というのはいくらなんでも言い過ぎだろうが、逆に登山が他の多くの遊びのように複数人でやるのが当たり前のものだったとすれば、僕は登山にのめりこむことは絶対になかったと思う。


2009年6月16日「どうして山なのか」より http://d.hatena.ne.jp/hayto/20090616/1245162013

孤独だから山に登る。それが自分の答えだった。明確な答えのはずだった。

確かに、大切な人ができて、物事の優先順位が変わって、かなりの数の山が仕分け対象になり、心の中から消えていった。だが、それでも依然として「登りたい山」が冬山を中心として少数ながらも残ってしまったのはどうしてだろうか。


これを機会にけじめをつけたい。山を続けることが、お互いを不幸にするような気がするから。

運命は信じない自分がいる。未来は自分で変えられると信じている。だけど、逆らえない何かがあるだろうということも感じている。

どれだけあの人のことを想っていても、登りたい山が残ってしまった。どうしても歩いてみたい縦走路があり、どうしても立ってみたい山頂がある。そんな自分が嫌だ。

自分にとって山とはなんだろうか。山の何に値打ちを感じ、どうしてそこまで心惹かれるのか。


僕は、山をやめたい。




8/17追記

全ての山行計画を一旦白紙化。冬山はやらない方針を決めた。唯一、後立山日本海縦走を9月にやることで、ひとつの区切りをつけたいと思う。


9/18 追記

山をやめる必要性がなくなった。自分の力量を再度検討し、冬山に関する計画を練り直すことにする。